関ヶ原古戦場の感想
日本人ならほぼ説明不要の戦。天下分け目の合戦の地へ行ってきました。
今回は西軍側の陣を中心に回って来ました。時間の都合で遺構として分かっている東軍西軍全ての陣を回ることはできませんでしたが、やはり歴史の舞台となった場所だけあって感慨深いものがあります。
東軍 徳川家康対西軍 石田三成の戦い。わずか1日で決着はついてしまいますが、東軍が簡単に勝ったわけでもなくどちらが勝ってもおかしくなかった戦いで、政治的な駆け引きと実際の戦いとが入り乱れているところが歴史好きからすると興味が尽きない戦いですよね。
そんな関ヶ原の戦いなので歴史にたらればはありませんが、そもそも石田三成が大谷吉継、毛利輝元にそそのかされなければ。とか小早川秀秋の裏切りもですが、その場に行くと色々と考えてしまいます。戦国ものでは石田三成が大谷吉継、毛利輝元を引き込んだように書かれているものが多いですが、個人的には逆だと思っています。
関ヶ原古戦場画像ギャラリー
関ヶ原開戦の地
わかりづらいですが一番右の写真の電柱付近にある山が小早川秀秋の居た松尾山になるかと思います。
小西行長陣跡(西軍)
案内板に従い小西行長の陣跡に向かいます。開戦の場所とほぼ同じ場所歩いて70Mほどで着きます。
九州熊本を代表する武将で説明板にも書いてありますが、キリシタンであったため西軍が負けて捕まったのちも自刃はキリスト教信者としてはできないため、石田三成と共に六条河原で斬首となりました。
島津義弘陣跡(西軍)
次は島津義弘の陣跡へ向かいます。開戦の地から2〜300mくらいかと思います。
歩いて行くと林の中に島津の家紋の旗が見えてくるのでわかりやすいです。
小池神明神社のところに島津義弘の陣跡を示す石標があります。
島津義弘の関ヶ原での行動は諸説あるようなので正確にはよくわかっていないようですが、西軍が崩れる中、敗走ルートを東軍(家康の陣)方面へ攻め込みその後、足止めの犠牲を出しながら自国の薩摩まで逃げ帰ることができています。これが戦略的に考えてこの行動をしたのか、討死覚悟で攻めたけど途中で撤退を決意したのか?
活躍こそしていない武将だけど非常に歴史(史実)は面白いなぁと思っています。
宇喜多秀家陣跡(西軍)
開戦の地から少し離れますが、宇喜多秀家の陣跡に次は向かいます。
天満神社に宇喜多秀家の陣跡があるようです。案内板はあるもののただの林に入っていくようにしか見えず昼間でも木が多く暗くて少し怖い雰囲気です。
宇喜多秀家の陣跡に到着です。結構森の中といった感じで少し神秘的でもある場所でした。宇喜多秀家は関ヶ原後、西軍であったため処刑は免れましたが八丈島への島流しとなりました。たぶん途中で死ぬだろうくらいで八丈島に島流になったんだと思います。当時本土から約300kmも離れた八丈島に生きて辿り着いたことも奇跡だと思うし、八丈島で84歳まで生きられたことも奇跡と言えると思います。八丈島近辺は波も荒い日が多く、今のように大型の定期船が出ているわけでもない場所です。島はこの時代物資も揃っているわけではないので日照りや台風など島での生活は厳しいものだったと言われています。豪姫(妻)が仕送りをしていたと言われていますが、裕福な生活が送れることはなかったと言われています。
島左近陣跡(石田三成本陣)(西軍)
笹尾山の石田三成本陣跡へ行きます。
島左近の陣跡の説明版がありました。ざっくりとした説明のみで少し寂しいですね。最後がよくわかっていないのも島左近が元々すごい人な上に謎が想像を掻き立てて伝説的な人物にしている感じがありますね。個人的にですが物語映えする人物というイメージがあります。
島左近の陣を少し登ると石田三成の陣跡に着きます。笹尾山の上にあるので関ヶ原の各武将の陣が見渡せます。
関ヶ原決戦地
笹尾山のすぐ麓に関ヶ原決戦の地があります。
今はのどかな田んぼが広がってますが、ここで天下分け目の戦いがあったんですね。
次回は東軍を中心に陣を回ってこのページに追加したいと思います。
関ヶ原古戦場情報
年月日 | 1600年10月21日 |
対 戦 | 西軍 石田三成 対 東軍 徳川家康 |
住 所 | 岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原1202(決戦地) |
特 徴 | 国指定史跡 |
入場料 | 無料 岐阜関ケ原古戦場記念館 一般:500円 高校生・大学生:300円 中学生以下 :無料 |
営業時間 | 岐阜関ケ原古戦場記念館 9:30~17:00(入館は16:30まで) 休館日:毎週月曜日(祝日の場合は翌平日)、12/29~1/3まで |
駐車場 | 岐阜関ケ原古戦場記念館 有り(無料) |
関ヶ原古戦場へのアクセス
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