草津城 / 安芸草津城 / 田方城(広島県)

草津城 / 安芸草津城 / 田方城(広島県)

草津城 / 安芸草津城 / 田方城(広島県)の感想

草津城は今は埋め立てられたのでわかりませんが戦国時代には海に面した山城で、広島湾の西岸にある標高 320.6 mの鈴ケ峰に築かれていたとされています。海に向って南東に派生する尾根の先端部に
位置している。草津城の本城跡は4つの郭群からなり、各郭群は4本の堀切によって区分されている。これら郭群を北側から4郭群とした。この4つの郭群は、古江分(2つの郭群)に分けられていた様で、当時はかなりの標高とかなりの規模をもっていたこと思われます。
築城ははっきりしませんが、戦国時代に入ると、瀬戸内海の海運と厳島の権力を抑えるために重要な要害とされ、安芸武田氏・大内氏・佐伯氏→藤原氏・陶氏・毛利氏が激しく奪い合った城です!

毛利氏が厳島の合戦で陶氏(大内氏)を打ち破る1年前の1554年に、草津城の城主だった羽仁有繁(はに ありしげ)は大内側ではあったが、毛利元就とも懇意であったが武道の義理を違えて陶晴賢に背き、元就に味方をすることは出来ないとして、羽仁藤直の嫡男で当時3歳の羽仁就智(はに なりとも)を毛利元就に預け、就智が成人した際に御用に立つようなら毛利氏の家臣とすることで羽仁氏が断絶しないよう元就へ依頼し、羽仁有繁と羽仁藤直は居城である草津城と所領を無血で毛利元就へ引き渡して、周防国山口(大内氏の本拠地)へ引き上げていったみたいです。

毛利氏は水軍の将である重臣・児玉氏を草津城代に配置、児玉就方が草津城に入城し、息子の児玉就英へと続きました~(^▽^) 児玉氏支配下で城の南に位置する草津湊は広島湾を警護する毛利水軍の基地となり草津の城下町も大いに繁栄した様です。
しかし、関ケ原合戦後、敗れた毛利氏は周防国・長門国の2か国に去ってしまいます。新たに安芸国の支配に入った福島正則は草津城下の山陽道の『西の関所』として大門を築いたため草津城は廃城となり徹底的に破棄させたようです。。。(´;ω;`)ウッ…

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草津城は本当にごちゃごちゃしていまして・・・バイパスやら住宅地やら山の斜面やら・・・なかなか辿り着くのが四苦八苦です・・・( ノД`)シクシク… 辿り着いても入口がめちゃめちゃ地味で辿り着けた自分を褒めたいぐらいでした!

バイパス?ただの団地に行くための専用道路???の脇から草津城への入口があり、ここから一気に本丸まで攻め込めます~♪

こんもりとした土塁跡のようなものが出てきました!

結構な標高でしょ~???( `ー´)ノ

本丸に到着です!!!(。◕ˇдˇ​◕。)/~♪

この山全体が広大な山城と考えれば、現在は住宅地・団地・広電のチンチン電車の線路と駅・・・などなど、開発に開発が進んでしまい今では跡形も無くなくなっており、かろうじてこの本丸跡だけが残っている状況です・・・安芸国でも誇れた壮大な山城だったのに・・・(´;ω;`)ウッ…

草津城 / 安芸草津城 / 田方城情報

築 城不明(1523年頃?)
城 主羽仁氏、武田氏、大内氏、児玉氏
住 所広島県広島市西区田方1丁目7
種 別山城
廃 城不明(1615年頃)
特 徴
入場料無料
営業時間
駐車場無し

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