武田信廉(武田信綱)の墓の感想
どっちなんだろう・・・マップ上では『武田信綱(武田信廉)の墓』とあるのですが、個人的には信綱よりも信廉かと思いますので逆に表記しました。(入道した時には信綱なんで信綱が前に来ているんですかね???)
武田信廉は信虎の6男であり、兄の武田信玄が父の信虎を駿河国に追放後、諏訪国に侵攻し支配をするのですが、諏訪国統治を確立しつつあった頃、武田方に謀反を起こした諏訪西方衆(さいほうのしゅう)の追放と所領没収を伝えて知行増加を約束するなど、地元の国人衆への取次役として活躍をしていた様です。
武田家臣団編成を記した『軍鑑』の「惣人数」によれば信廉は「武田」姓を免許された武田一族を記載した御一門衆のうち武田信豊の次に記載された人物であり、第4次川中島の戦いで兄の(信玄の右腕の弟)武田信繫が討死すると、親族衆筆頭となり1570年に信濃国高遠城の城主として赴いています。
その後は高島城に入りますが、1582年に織田・徳川連合軍が攻め込むと、武田信廉は大した抵抗もみせずに高島城を放棄し甲斐国に撤退します。武田家が滅びる頃、織田軍による執拗な残党狩りによって捕らえられた武田信廉は、武田勝頼自刃してから13日後の3月24日に甲斐府中の立石相川左岸にて処刑された様です(´;ω;`)ウゥゥ
武田信廉(武田信綱)の墓画像ギャラリー
逍遥院に武田信廉の墓はあります!







武田信廉は武田二十四将のひとりです( `ー´)ノ



武田信廉(武田信綱)の墓情報
| 年 代 | 1582年 |
| 住 所 | 山梨県甲府市桜井町1000−1 |
| 種 別 | 史跡 |
| 入場料 | 無料 |
| 営業時間 | – |
| 駐車場 | 有り(無料) |