鞆城の感想
『鞆城(ともじょう)』は現在の広島県福山市にある『鞆の浦』と云うめちゃくちゃ雰囲気のいい港町の面影を残した場所にあります。私は広島出身なのですが『鞆の浦』と云えば昔から古き良き港町のイメージがあり、今でも是非皆様に行って欲しいスポットのひとつです!!!(^▽^)/
『鞆城』を私が知ったのは、戦国時代、織田信長に京を追い出され足利義昭が毛利氏を頼って辿り着いた場所がここ鞆の浦と云われています。
その時に築かれたのが鞆城だと思っていたのですが、全然違ってて、毛利輝元の時代ではなく毛利元就が築城したのが鞆城だったみたいです!?(。◕ˇдˇ◕。)/
鞆の浦は戦国時代の前から『潮待ちの港』として栄えてみたいですね~そんな場所だからこそ軍事的にも枢要の地であったみたいです。。。そもそも『鞆の浦』は足利氏には縁起のいい場所で、その昔、1336年に多々良浜の戦いで勝利した足利尊氏がこの『鞆の浦』の地で光厳天皇の命により新田義貞討伐を指示された縁起のよい場所だったりします!
勿論知っていたと思われますが、毛利元就的にはこの瀬戸内海の人・物の流れの溜まり場だったこの鞆の浦に『鞆要害』を築かせたのがスタートとされています!『鞆要害』とは当時尼子氏の侵攻の抑えとして、備後地方の豪族である渡辺氏に命令し丘陵に築いたのが『鞆要害』です!!!
1576年に京都を追われた足利義昭が毛利輝の庇護の下、この鞆要害で亡命政権(全然知らん言葉ですが、簡単に言うと勝手に幕府を樹立したって感じです)を樹立したようです。
結局、鞆幕府は全く相手にされず、毛利氏は足利義昭のせいで織田軍(秀吉)たちと全面戦争に突入してしまいます。。。(´;ω;`)ウゥゥ
関ケ原の合戦後、毛利氏は追い出され新たに安芸国に入国した福島正則は『鞆要害』を新たな築城が開始され、現在の『鞆城』と呼ばれるようになった様です。『鞆城』は丘陵部の本丸を中心に二の丸、三の丸が囲み、その城域は、南は鞆の浦の港、東には福禅寺、北側には沼名前神社の参道当たりませ達するなかなか大規模のお城に仕上げたみたいですねぇ~((´∀`*))ヶラヶラ
鞆城画像ギャラリー
風情のある鞆の浦の街並みを楽しみながら、『鞆城』に攻め込んでいけます♪




鞆城は鞆の湊の近くにある標高20m程の小さな独立丘陵に築かれています!
現在は鞆城山公園や鞆の浦歴史民俗資料館になっちゃっていますねぇ~(`・ω・´)ゞ




鞆城の石垣は最初は毛利氏!その次に福島正則!が築いた新旧融合の石垣みたいですね~♪♪♪(●^o^●)

おおぉぉぉぉぉぉ~個人的には生々しい石垣ですなぁ~♪ いい感じです♪♪♪








たぶん、ここが本丸!!!現在は『鞆城山公園』と『鞆の浦歴史民俗資料館』になっていました!!!この本丸付近から見渡せる風景(ぶっちゃけ瀬戸内海の島なみ)は、本気で!本気で!本気で!!!最高です!!!!日本に生まれた本当に良かった!






海側の反対側には本丸の石垣が残されたいました(`・ω・´)ゞ







何じゃろう????『正一位早毛利稲荷神社』???なにそれ???そんなんがありました!(o^―^o)ニコ

後は・・・再び鞆の浦の街並みを楽しみながら帰りましたぁ~(⌒∇⌒)




鞆城情報
築 城 | 不明 |
城 主 | 毛利氏、足利義昭、福島氏 |
住 所 | 広島県福山市鞆町後地7536−1 |
種 別 | 平山城 |
廃 城 | 1615年 |
特 徴 | 市指定史跡 |
入場料 | 無料 |
営業時間 | – |
駐車場 | 有り(有料:100円/30分) |
鞆城へのアクセス
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