増田城/土肥城/土肥館の感想
増田城は小笠原義冬が1362年~1367年頃に築城したと云われており、その際に愛娘を生贄(たぶん人柱)したと云う悲話が残されている城です。1458年に小笠原氏は小野寺氏との戦いに負け仙北郡の楢岡城に逃げ去ったため、増田城は小野寺氏の家臣だった土肥氏(土肥頼景)が川連大館の亀岡城より移り入城したため、増田城は土肥城とか土肥館(どいだて)とかと呼ばれるようになった様ですね(`・ω・´)ゞ
後に土肥氏は土肥道近(道成)の代に最上氏の家臣になった様です。1590年には豊臣秀吉による太閤検地に抵抗して一揆が起こり、鍋倉四郎らが2,000人の農民を伴って増田城に籠もった様ですが、豊臣方の上杉景勝により成敗され鎮圧されてしまいます。
関ケ原合戦の頃まで最上家の家臣だった長瀞内膳進光が入城し居城として増田城はありましたが、関ケ原合戦後の1602年に秋田国替えになった佐竹氏が入国してくると、佐竹東家と云われる東義賢が入城し居城となりました。1602年~1616年頃まで東義賢の城としてありましたが、岩城貞隆が増田で1万石を拝領し増田城に入城してきますが間もなく岩城氏は信濃川中島へ転封となったため増田城は1622年に廃城となったと云われています。
佐竹東家の東義賢が常陸国から秋田へ国替えとなり佐竹義宣についてきて入城した城だと知っていたので城攻めしたかった城なのですが、自分が気になっている土肥氏(土肥の一族も)が増田城に居たことが知れて本当に驚きと満足がめちゃくちゃありました(。◕ˇдˇ◕。)/
増田城の本丸は東西200m×南北300mの方形で一段高い位置にあり、周囲に土塁をめぐらせ、さらに外側にも内堀を巡らせていた平城だったみたいで、南側の内堀は幅約10mあり、他の三方は幅約6mあった様です。さらに外側には外堀も存在していたと思われます!
現在は、小学校の北西隅にある貞治碑と二本杉の所と北西隅に土塁らしきものが残っています。東側の道路に面して土塁らしき地形があります。公園の東側入口に案内板が設置されていましたヾ(≧▽≦)ノ
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増田城/土肥城/土肥館情報
| 築 城 | 貞治年間(1362~68年) |
| 城 主 | 小笠原氏、土肥氏、長瀞氏、東氏(佐竹氏)、岩城氏 |
| 住 所 | 秋田県横手市増田町増田土肥館141 |
| 種 別 | 平城 |
| 廃 城 | 1622年 |
| 特 徴 | – |
| 入場料 | 無料 |
| 営業時間 | – |
| 駐車場 | 無し |
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