有名な横手城ですヾ(≧▽≦)ノ そぉ~あの横手焼そばの横手城です♪
『横手城』はその昔『朝倉城』と呼ばれていましたが、その他にも『阿櫻城』『韮城』『龍ヶ崎城』『衝城』などなど・・・っと呼ばれていたようですね((+_+))
1554年に小野寺景道が小野寺家配下だった、横手氏・大和田氏・金沢氏たちの反発を鎮圧して小野寺氏の居城を横手城に移したと云われています。
関ケ原の戦いの時には、小野寺義道が徳川家康と敵対する西軍方の上杉景勝と通じていると疑われたため(事実は全くわかりませんが・・・)関ケ原の合戦後、小野寺義道は改易されてしまいます。余談ですが、改易されたとき幽閉されていた小野寺義道を温かく遇してくれた津和野藩主 坂崎直盛(この人は宇喜多直家の異母弟 宇喜多忠家の子、宇喜多 詮家(うきた あきいえ)でありたくさんの騒動を起こします!苦笑)坂崎直盛はのちに幕府に対する謀叛(千姫事件)の疑いで自害に追い込まれると、小野寺義道は坂崎直盛の墓を秘かに建立したといわれており、その後、津和野藩主となった亀井氏に代々仕えた様ですね!
横手城は一時期最上氏の城となっていましたが、1602年に佐竹義宣が常陸国から転封されて入国すると、横手城は佐竹氏の城となったため伊達盛重(国分盛重)が城代として入ります♪ これまたこの伊達盛重(国分盛重)が少し興味深く、伊達晴宗の子として生まれ甥の伊達政宗に仕えており、伊達家から国分家を継いでいたと思われます。国分家を継いだ盛重は家中の反発を抑えきれず伊達政宗に討伐され、国分盛重は伊達政宗に謝罪し許されますが国分家と所領はすべて伊達政宗に没収されてしまいます。
その後も伊達政宗の配下で蒲生氏郷への人質の役など重要な責務を果たしていきますが、1596年に突如伊達家を去り佐竹義宣の下へ走りそのまま佐竹義宣の家臣として仕えることになります! 佐竹家が国替えになるとそれに伴い一緒に出羽国の移り住み横手城の城代として過ごしたようですね(`・ω・´)ゞ
あともう一つ・・・余談ですが・・・横手城は石垣を使わない土の城だった様で、雨などの土盛りが崩れるのを防ぐための土止めと、城を取り巻く急斜面を敵兵が這い上ることができないようにするための目的で『韮(ニラ)』を植えていた様で、だから『韮城』と呼ばれていたようですね!(≧◇≦)爆笑 そんな城初めて知りました~笑笑
【横手城】
横手城は現在城址公園として整備されています!





本丸には模擬となりますが天守閣の様な建物が・・・横手公園展望台ありました♪


『小野寺氏彰徳碑』です!!! 地元の人からは愛されていたのでしょうか?
小野寺氏にめちゃめちゃ興味が湧いてきました!!!(。◕ˇдˇ◕。)/




1868年の戊辰戦争の際に横手城は落城したようですね!






二の丸ですね!







武者溜広場です!ここでかまくらのイベントとかをやっています♪




大手門です!!!!!!!!ヾ(≧▽≦)ノ



















横手城は小野寺氏の朝倉城と呼ばれていました。 本丸です(=゚ω゚)ノ