名生(みょう)城の築城年代は定かではありませんが、南北朝時代に斯波家兼によって築かれたと云われています(=゚ω゚)ノ
足利氏の流れを組んでいる斯波高経の弟の斯波家兼は奥州探題に任ぜられ下向し大崎氏の祖となり、大崎家兼の二男の兼頼が出羽国に進出し山形で最上氏の祖となった様です。つまり・・・大崎氏と最上氏は元々同じ流れを組む斯波氏の出なんですね~(。◕ˇдˇ◕。)/
けど・・・更に元々は鎌倉時代には源頼朝による平泉征伐で功のあった渋谷氏・大椽氏・泉田氏・四方田氏らが河内四頭(大崎の地は河内と呼ばれていたみたいですね)と呼ばれ支配していた。しかし建武年間(1334~37)、河内四頭は関東管領の意に従わないとして領地を没収されて、斯波家兼が奥州探題に任ぜられ入国してきたみたいですね( ̄▽ ̄)
説明板によると、史料による所見は第4代目当主大崎満持の子の大崎持直が城主であったようです!その後、第11代当主大崎義直が家督を相続する時には名生城の城主だった様です。第12代目大崎家当主の大崎義隆が中新田城から名生城に居城を移し大崎氏最後の城となった様です( `ー´)ノ
大崎氏は奥州探題として広大な勢力を持ったが度重なる内紛(大崎義隆の時には大崎義隆自身の寵童同士による争い)でどんどん勢力を衰退化させ、大崎合戦(内紛により伊達氏に攻め込まれ、大崎氏と最上氏連合により伊達氏との合戦へ発展)、更には葛西・大崎一揆(1590年に小田原征伐で参陣しなかった大崎氏を改易し、豊臣秀吉は木村吉清・清久親子を送り込みますが、地元の旧家臣の国人衆が一揆をおこしたのが葛西・大崎一揆です!) その一揆を鎮圧しに来た蒲生氏郷がこの名生城に立て籠ったり、裏で糸を引いていた伊達政宗が鎮圧したりします。その後は伊達政宗の領地となり伊達家からは高城宗綱や宮沢元実が城番として入城しますが、奥州再仕置の際に廃城になったと云われています!
名生城は標高約43mの青木原台地に立地しており、東西約400m・南北約850m規模の館城だったと思われ渋井川などの天然の堀と土塁が築かれた城だったと思われます!発掘調査だと堀と土塁からなる曲輪は9つもあった様で、なかなかの規模の館城だった様ですね!!!!流石!!!名門家!!!ヾ(≧▽≦)ノ
【名生城】
実はここも・・・行きたかったお城のひとつです♪ だから・・・ワクワクヾ(≧▽≦)ノ



畑のところところに案内標識が・・・







土塁跡ですな( `ー´)ノ 結構!立派!!!


今は用水路みたいになっていますが、これも内堀などの名残なのかなぁ~???


