秋田城(秋田県)

秋田城の感想

秋田城の歴史はめちゃくちゃ古いですね~((+_+))
一応、城と表記をしていますが元々は『城柵(じょうさく)』と云うみたいです。『城柵』とは、7世紀(601年~)~11世紀(~1100年)の古代日本において大和朝廷(ヤマト王権、中央政権)が、本州北東部を征服する事業の拠点として築いた施設だったようで、『城柵』は朝廷が蝦夷の居住地域に支配を及ぼすための拠点となる政治の中心の施設だったと思われます。この城柵の内側にも多くの人が住んでいて、城で例えるなら『総構え』の施設だったんだと思います。 特に東北では蝦夷の存在と蝦夷の支配には相当力を入れないといけなかったんでしょうね。

秋田城は元々、現在の山形県酒田市城輪嘉平田にある『出羽柵(でわのき/いではのき/でわのさく)』を秋田村高清水岡に遷置したことが始まりとなっており、それまで秋田は越後国の一部とされていた様ですがこの遷置されたことで越後国の一部から分離され出羽国として昇格した様です。
760年に出羽柵から秋田城へ名称を変更したらしく、780年に大和朝廷から鎮狄将軍(ちんてきしょうぐん)安倍 家麻呂(あべ の やかまろ)が派遣されます。安倍 家麻呂は秋田城の停廃が検討をしますが、朝廷は秋田城の放棄を認めず軍兵を遣わして鎮守とし、鎮狄使または国司1名を専任として秋田城の防護にあたらせることにします。この時に国司次官だった出羽介が秋田城介(あきたじょうのすけ)として城に配置され出羽国北部の統治にあたることとなります。

秋田城に入城した安倍家麻呂はジワリジワリと出羽国北部の支配を強めていきます。蝦夷のヒーロー阿弖流為(あてるい)もどんどん追い詰められていき、802年には安倍家麻呂の朝廷側は阿弖流為(あてるい)に軍事的勝利し朝廷と蝦夷との関係が大転換した中心的な軍事戦略舞台となったのが秋田城みたいですね(`・ω・´)ゞ

秋田城画像ギャラリー

秋田城は現在の『羽州街道』沿いにあります。

今回は秋田市立秋田城跡歴史資料館側の駐車場を利用し秋田城へ進んでいきました♪

下に走っているのは羽州街道です♪

政庁西門

政庁西門に到着です!

政庁南東隅部

政庁城南東隅部ですね!

西門

西門ですかね・・・( `ー´)ノ

東西大路

門をくぐると、ズドン!っと1ッ本真っすぐな道が走っていますね!

一本太い道は『東西大路』って云うんですね。。。

秋田城案内図

外郭東門

築地塀

外郭東門だす!!!(=゚ω゚)ノ

秋田城情報

築 城733年
城 主
住 所秋田県秋田市寺内大畑5−102
種 別平城
廃 城10世紀ごろ?
特 徴国指定史跡、続日本100名城
※続日本100名城スタンプは「秋田城跡歴史資料館」「史跡公園管理棟」にて押せます。
入場料無料
営業時間
駐車場有り(無料)

秋田城へのアクセス

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