松葉城/岩瀬城の感想
松葉城(岩瀬城)は、1236年に西園寺公経(きんつね)が現在の宇和島一帯を荘園となったことから始まり、西園寺公良(きみよし?)の時に、1376年に前身の岩瀬城に入城したと云われています。
それから岩瀬城は松葉城となり、伊予西園寺氏第19代目当主の西園寺実充(さねみつ)が黒瀬城に居城を移すまでの約170年間を伊予西園寺氏の本城としていた様です。(説明板に書いてありました!)
松葉城は城の下松葉側(正面)に反り立つような垂直の天然の断崖絶壁が構えており、押し寄せる敵兵の直進を物理的に阻む絶好の障壁となっている様です。正面からの正面突破を力技で封じ込める、まさに自然の要害を極限まで活かした土の城だったと思われます。
松葉城の標高は409.9mの松葉山に築かれており、山頂は三段に分かれていたみたいです。土塁や井戸など防御態勢も充実していたんじゃないかと思います。170年間かけて西園寺氏がコツコツと松葉城を拡張していったと思われます。
西園寺氏はもともと、鎌倉時代に宇和郡を所領(知行国)として与えられた公家(藤原北家公通流)の名門でした。南北朝時代から室町時代にかけて京から伊予国へ土着し、自ら武士化していきます。松葉城や黒瀬城(いずれも現在の西予市宇和町)を居城とし、宇和盆地を中心とする南予一帯の独立した地域権力へと脱皮していきました。西園寺氏は直轄領の支配だけでなく、南予各地に散らばる有力豪族(土居氏、法華津氏、魚成氏、三波氏など)を「西園寺十五将」と呼ばれる強力な国人(武士)集団として傘下に組み込んでいきます。その後、伊予西園寺公広が当主でしたが、西園寺公広は毛利氏や河野氏との連携、巧みな外交・防衛戦で一時は長宗我部氏の軍勢を退けつつも、最終的には圧倒的な兵力を誇る長宗我部元親の軍門に降伏しその傘下に入りました。
1585年の羽柴(豊臣)秀吉の四国征伐が始まるり制圧され、大洲城に戸田勝隆が入国してくると、新たな見地に対し旧西園寺氏家臣の一揆が起こってしまい、戸田勝隆が西園寺公広がこの背後にいると疑いを向けた。『秀吉が本領安堵した』という偽の朱印状を示されて、戸田勝隆に呼びつけられた西園寺公広は、戸田邸で謀殺されてしまいます。伊予西園寺公広は享年51歳。 実子も養子もなかったため、伊予西園寺氏は完全に滅んでしまいました。
松葉城/岩瀬城画像ギャラリー
松葉城は山道を上って行くとクルマを停めれるスペースがありました。
そこから整備された山道を進んでいきます!


もくもくと進んでいくと、松葉城の本丸近くまで直ぐに歩いていきます!



この土塁の脇から本丸へ進んでいけます。





しっかりと土塁が築かれていますね!石垣らしき跡がありました。




堀切
堀切です~♪




ここからはかなりの急斜面で本丸に進みますが、階段が設置されていたので本当に助かりました♪






階段の下はかなりの岩の壁になっており、なかなか登るのは厳しそうです!流石!伊予西園寺氏の本城ですな~♪

ここが本丸になるんですかね?よくわかっていませんが~苦笑


土塁
お!!!りっぱな土塁!!!

奥に進んでいきます。






いやぁ~ここも岩の城だなぁ~

切岸
わかりづらいですが・・・切岸も凄い!!!











奥に広いですね! 建物の柱の土台になっていたんじゃないかと思われる石もありました! 土塁や空堀も見受けられます! 切岸もガッツリですね!





土塁盛ってるねぇぇぇ~♪ 下にあるのは石垣かな?ただの岩かな???






















松葉城/岩瀬城情報
| 築 城 | 1376年 |
| 城 主 | 西園寺氏 |
| 住 所 | 愛媛県西予市宇和町 |
| 種 別 | 山城 |
| 廃 城 | 1587年 |
| 特 徴 | 市指定史跡 |
| 入場料 | 無料 |
| 営業時間 | – |
| 駐車場 | 無し |