伊治城の感想
伊治城は『いじじょう』『これはりじょう』『これはるじょう』などの呼び方が複数あります(〃艸〃)ムフッ 日本語って本当にむずかしいなぁぁぁ~苦笑 長らく『いじじょう』と音読みされていたみたいですが、多賀城跡から発見された漆紙文書などにより、当時は『これじ』『これはり』または 『これはる』と呼ばれていた可能性が非常に高い様です。
伊治城は奈良時代(8世紀後半)に大和律令政府が東北地方(陸奥国)の支配拡大と北方防備のために築いた古代の城柵(官衙・軍事拠点)で、767年頃に鎮守将軍 田中多太麻呂たちによって築かれたと云われています。国府である多賀城(宮城県多賀城市)と、後に鎮守府が置かれる胆沢城(岩手県奥州市)の中間に位置し、最前線の軍事・行政拠点として機能していた様です。
伊治城を語る上で欠かせないのが、38年戦争(律令政府と蝦夷の全面戦争)の引き金となった『宝亀の乱(伊治公呰麻呂の乱)』です。
780年に蝦夷出身でありながら律令政府に服従し、栗原郡の大領(地方官)に任命されていた伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)が、過酷な差別や圧政に反発し伊治城内で陸奥国按察使・紀広純や牡鹿郡大領・道嶋大楯らを殺害してしまいます!!!これをきっかけにこれまでの政権運営に激しい反発が生まれ、反乱軍はそのまま南下して国府だった多賀城を攻撃・放火して壊滅させました。この事件により律令政府は大混乱に陥り、坂上田村麻呂らが派遣される本格的な蝦夷征討戦争へと突入していきました・・・そんなエピソードがあった伊治城です(=゚ω゚)ノ
伊治城画像ギャラリー


のんびりとした道に見えますが・・・国道4号線です( ̄▽ ̄)
その道沿いに『伊治城』の説明板が建っていました~♪


我々が立っている場所は伊治城のほんの一部だけで、説明板の奥側全域(勿論住宅地も含む)が伊治城だった様ですね~
あと、奥州にこんなに古代城柵(全部で22か所ぐらい?)って築かれていたんですね~大和朝廷も蝦夷支配のために大規模な作戦を展開していたことがわかりますね!







伊治城情報
| 築 城 | 767年 |
| 城 主 | – |
| 住 所 | 宮城県栗原市築館城生野峯岸 |
| 種 別 | 平城 |
| 廃 城 | 不明(9世紀ごろ?) |
| 特 徴 | 国指定史跡 |
| 入場料 | 無料 |
| 営業時間 | – |
| 駐車場 | 有り(無料) |
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