本堂城は本堂氏が築いた平城で、『戸沢三十五城』の1城と云われています。
城跡の北西側を矢島川が南西方向に流れており、東西182m・南北273mの矩形をなして幅は約10mで東西南北にめぐらされ内堀が築かれていた様です。本堂城の周囲には内堀に接して高さ4mの土塁が築かれていた様で、今ではよくわかりませんが西門の付近に少し土塁の形跡が確認できます!
本堂氏は清和源氏の流れを組む一族で鎌倉時代に出羽国山本郡に土着し勢力を蓄え、小規模ではありますが小大名として成長したと思われます。角館城の戸沢氏と姻戚関係を結んで勢力を拡大し、当初『本堂城』は山城だった様ですが、今の場所に居城を移し平城として築き直したようです。
その後・・・戸沢氏とは縁が切れて本堂義親の代には戸沢氏と戦って鶯野(現在の大仙市)で戦死し、その子、本堂頼親は金沢城主(現在の横手市)と戦い野口で戦死してしまい、更にその子の本堂朝親も姉婿成岡弾正に加勢して三郡城(三又城かなぁぁぁ?)主と戦った際に波岡で戦死しているみたいです・・・めちゃめちゃ弱いな!(´;ω;`)ウッ…めちゃくちゃじゃ!
本堂朝親の子の本堂忠親の時に豊臣秀吉の小田原征伐に参陣し、その後は上杉家の家臣藤田信吉の検地にも協力している。その結果、本堂忠親は豊臣秀吉から元本堂・黒沢などの中部の11ヶ村、8983石余の知行地が本領安堵された様です!?(めちゃくちゃ少ない)
朝鮮出兵にも参加しており名護屋城にも赴いており、割り当てられ兵の数は25人だったとか!?!?(少なすぎる!本当かよ!失笑)
関ケ原の際は徳川家康側につき仙北境で小野寺義道と戦い、関ケ原の戦い後は常陸国新治郡志筑8500石に国替えとなり、本庄氏は明治維新まで続いたようです。
【本堂城】










