勝賀城(かつがじょう)は1221年の承久の乱(じょうきゅうのらん)で戦功をあげた、香西資村(藤原資村)が標高365mの勝賀山山頂に中世山城を築き詰城とし、東麓に平時の居城である佐料城(館)を築いて勝賀城は本城とした様です。因みに・・・藤原資村(すけむら)が讃岐国香川郡綾南条に入国した際に、この地名をとって『香西こうざい)氏』を名乗るようになったみたいですね(`・ω・´)ゞ
南北朝時代から室町時代にかけて、香西氏は細川氏の重臣(讃岐守護代など)として頭角を現し、讃岐国内で大きな影響力を持っていました。香西氏は同じく藤原姓を名乗る羽床氏、安富氏、香川氏らとともに『讃岐藤家(とうけ)』と称され、その筆頭格的な存在だったみたいですね。しかも、香西氏は瀬戸内海の塩飽水軍や村上水軍との連携を深め、現在の高松市西部から坂出市東部に至り、港町である塩江や香西の港を押さえることで海上貿易の利権も手中に収めていました。また、この香西城下町は敵の襲来に備え、迷路のように道が入り組んでいたため『香西の向き向き』と呼ばれたみたいですねヾ(≧▽≦)ノ面白い♪
1542年頃になると、阿波国から讃岐国へ侵攻してきた三好長慶や十河一存(そごうかずまさ)の勢力に対し、香西資休(すけやす)や香西元載(もととし)らは抵抗を試みます!!! 勝賀城はその険しい地形を生かした要塞として幾度も使われ、山頂の曲輪群や石垣や堀切を駆使して三好・十河軍の侵攻を食い止めたりします!<(`^´)>
1576年頃には今度は長宗我部元親が讃岐国に侵攻してきます!当時勝賀城の城主だった香西佳清(よしかすが)は香西氏は最大の危機を迎えます。香西佳清は若くして病により視力を失っていたと伝えられますが智略に長けた武将だったらしく、勝賀城に立てこもり徹底抗戦の構えをみせます!!!( `ー´)ノ 長宗我部元親軍の圧倒的な兵力に対し勝賀城の急峻な山道と強固な陣構えは威力を発揮し長宗我部元親軍も容易には攻略できなかった様ですね!凄い!!!! しかし、周囲の讃岐諸豪族が次々と長宗我部元親に降伏・内応する中で孤立を深めた香西佳清は一族の存続を図るため最終的に元親と和睦しその傘下に下る決断をした様ですね。
その後、1585年に豊臣秀吉による『四国征伐』が始まると、長宗我部方についた香西氏は豊臣秀吉方の軍勢である小早川隆景や吉川元春らの軍に攻め立てられます。 この戦いにおいて香西佳清は敗北してしまい領地を没収されてしまいました。香西佳清は追放され、ここに鎌倉時代から380年近く続いた讃岐の名門・香西氏の領主としての歴史は幕を閉じ勝賀城も廃城となった様です。
【勝賀城】
畑の中の道をの持っていくと中腹に勝賀城の無料駐車場があるので、そこから城攻めが出します!ありがたいですね!(。◕ˇдˇ◕。)/






城攻め!!!開始です!!!(=゚ω゚)ノ う・・・うげげ・・・やっぱ猪とが出るみたいだなぁ~(´;ω;`)ウッ…こわい!!!


山道をひーひー言いながら登って行くと・・・『猫ひたい』や『猫の背』に到着しました













『猫ひたい』や『猫の背』は、城郭用語や地元伝承・登山道で呼ばれる山城の尾根や曲輪の地形名称らしく、勝賀城跡は山頂の主郭から各方位へ尾根が細長く伸びており、その地形の形が猫に似ていることからこんなユニークな通称が付けられたようです♪
けど、その地形を地上からどぉやって想像したのか・・・不思議ですね!笑笑












お!!! これって石垣の跡かな???? (=゚ω゚)???




超~いいですねぇぇぇ~(●´ω`●)




本丸に近付くにつれ港も見渡せていい風景になってきました((((oノ´3`)ノ











土塁もしっかりと残っていますね♪





本丸に到着ですヾ(≧▽≦)ノ










あれ???やってしまった!(/ω\)泣 おれこの裏側しか写真撮っていませんでした!
( ノД`)シクシク…本当にすみません!号泣
