十河城主の墓/十河一存・在保の墓の感想
十河城から歩いて2分・・・元々は十河城の二の丸だった場所に『十河城主の墓/十河一存・在保の墓』がありました!(十河歴史資料館もあるよ!)
十河一存(そごう かずまさ) 『鬼十河』と恐れられた猛将です!( `ー´)ノ
三好長慶の弟として生まれ、讃岐の名門・十河氏の養子となった武将です。圧倒的な武勇で知られ、「鬼十河」の異名で全国の戦国大名から恐れられていました!
合戦で脚に深い傷を負った際、傷口の処置として創口に直接塩を塗りこみ、そのまま馬に乗って敵陣へ突撃したという凄まじい豪胆エピソードが残されています。
また、兄の三好長慶が畿内を制覇して政権を打ち立てる中、一存は主力を率いて和泉国や摂津国を転戦しました。一存が存命の間は、反三好勢力も容易に手を出すことができなかったみたいです! 1561年に有馬温泉で落馬したことが原因で急死しました(松永久秀による毒殺説も囁かれています)。一存の死をきっかけに、繁栄を極めた三好一族の運命は急速に坂を転がり始めたと云ってもいいぐらいの重要な武将です!
十河存保(そごう ながやす) 長宗我部と対峙し続けた執念の武将です<(`^´)>
十河一存の兄の三好実休の子として生まれ、叔父である一存の跡を継いで十河城主となった武将です。土佐の長宗我部元親が怒濤の勢いで阿波・讃岐へ攻め寄せると、十河城や虎丸城、屋島城などを転々としながら徹底抗戦を貫きました。第一次・第二次十河城の戦いなど、絶望的な兵力差の中でも決して諦めず、長宗我部の四国完勝を阻止し続けた不屈の武将ですね!
織田信長と連携して四国での立場を固め、本能寺の変の後は羽柴秀吉に急接近しました。存保が讃岐で耐え抜いたことが、後の秀吉による『四国征伐』の呼び水となり、長宗我部元親を降伏に追い込む決め手となりました。 四国征伐後、旧領を一部回復した十河存保は豊臣秀吉の命を受けて九州の島津氏征伐(戸次川の戦い)へ出陣。功を焦った軍監の仙石秀久の無謀な作戦強行により、島津軍の『釣り野伏せ』にハマり、討ち死にを遂げてしました・・・( ノД`)シクシク… 長宗我部元親の息子の長宗我部信親と確執があったまま討ち死にしたと云われています・・・
千松丸(せんまつまる)十河存保の長男で悲劇の幼君です(`・ω・´)ゞ
十河存保の長男(三好一族の血を引く嫡男)として生まれた人物です。父(十河存保)が戸次川の戦いで討死してしまったため、生駒家での養育された様です。
十河存保が戸次川で討死した際、千松丸はまだ幼少であったため十河家は改易(所領没収)となってしまいましたが、豊臣秀吉の意向により、新たに讃岐の領主となった生駒親正(いこま ちかもと)のもとで引き取られ扶養されることになります。
千松丸が生駒家で育ち元服に近づくと、かつての十河氏の旧臣や讃岐の領民たちの間で『千松丸様こそ讃岐の本当の主君だ』と熱望する声が高まりました。これを恐れた生駒家(あるいは秀吉側の思惑)により、1599年頃に13歳という若さで命を奪われた(毒殺された)と伝えられています。千松丸の没後、生駒家ではお家騒動(生駒騒動)が頻発して最終的に改易へ追い込まれてしました(´;ω;`)ウゥゥ
十河城主の墓/十河一存・在保の墓画像ギャラリー


説明版
ここは十河城の二の丸にあたる場所らしいです(*´▽`*)



ありました!!!『十河一存・在保。千松丸の墓』です(=゚ω゚)ノ



十河一存(そごう かずまさ)の墓
十河一存(そごう かずまさ)の墓です!

千松丸(せんまつまる)の墓
千松丸(せんまつまる)の墓です!

十河一存(そごう かずまさ)の墓
そして・・・鬼十河っこと!十河一存(そごう かずまさ) の墓です(≧◇≦)


十河城主の墓/十河一存・在保の墓情報
| 年 代 | 十河一存:1561年没 十河存保:1587年没 十河千松丸:1589年没 |
| 住 所 | 香川県高松市十川東町868−1 |
| 種 別 | 史跡 |
| 入場料 | 無料 |
| 営業時間 | – |
| 駐車場 | 無し |