千石城/松山城(宮城県)

千石城/松山城(宮城県)

千石城/松山城の感想

千石城の築城年代はよくわかっていないみたいですが、鎌倉時代頃に遠藤氏によって築かれたと云われています。 遠藤氏は藤原南家の流れを汲む文覚上人(遠藤盛遠)の後裔らしく、遠藤盛継が鎌倉公方足利満兼から志田郡・玉造郡・加美郡の郡奉行に任ぜられ、1401年に陸奥国へ下向したことに始まると云われています。
因みに・・・遠藤氏の元々の祖は千葉氏らしく有名なのは美濃国の遠藤氏もありますが、鎌倉公方足利満兼に関係して陸奥国へ下向したことから、現在の栃木県一帯の武将だったんじゃないかと思います。
1536年頃には当主だった遠藤光定は伊達稙宗に従って大崎氏の古川城攻めに参陣したりしているが、1588年の大崎合戦(伊達政宗が大崎領へ攻め込む)大きな戦があります。当時、当主だった遠藤高康は早くから伊達政宗に協力していたため、千石城は攻め落とされたのではなく、伊達政宗が軍勢を集めて大崎領へ侵攻するための攻城拠点(前線基地)として使われた様です。伊達政宗はこの千石城を足がかりにして師山城中新田城へと攻め入ったものの、大崎側の反撃と大雪によって惨敗を喫することになります。

1590年年に豊臣秀吉の奥州仕置きにより大崎氏や葛西氏は改易となってしまいます。その後、大崎葛西一揆を経て伊達氏の所領再編により遠藤氏は陸奥国登米郡石森へ移封となってしまい、替わって千石城には石川昭光が・・・1598年には吉内重直(案内板は古田とあるが誤り)と続き、1603年には茂庭良元が城主となった様です( `ー´)ノ

大崎市松山千石の標高72.3mの山頂に三の丸があり、南尾根に二の丸、本丸と配置された連郭式の城である。千石城は別名松山城とも呼ばれていて、松山の市街地東南にある丘陵先端部を利用して築かれれており、現在は御本丸公園として整備されています。

千石城/松山城画像ギャラリー

山奥(山道)に入口を見つけますが・・・ここからはなかなか厳しい(熊出没注意!)

上がっていくと公園の駐車場がありました(; ・`д・´)

説明版

駐車場

千石城に攻め込みます(=゚ω゚)ノ

堀切

やっぱ夏場はかなりしんどいですね((+_+)) 草ボーボーが辛い!?

三の丸

三の丸の『コスモス園』を抜けていきます!! けど・・・これが熊が出そうでめちゃくちゃ怖いんですよ~笛を吹きまくりです( `ー´)ノ

空堀に橋が架かっていたのですが・・・下から見上げれたみたいなのですが・・・怖くて通過してしまいました(+o+) 熊&猪こわい!!!

堀切

本丸

本丸かな???(; ・`д・´)

説明版

千石城/松山城情報

築 城1401年
城 主遠藤氏、石川氏、古田氏、茂庭氏
住 所宮城県大崎市松山千石本丸
種 別山城
廃 城1657年
特 徴
入場料無料
営業時間
駐車場 有り(無料)

千石城/松山城へのアクセス

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