轟城/大西城(愛媛県)

轟城/大西城の感想

築城年代は定かではありませんが、1394年〜1428年頃に信藤正国によって築かれた城だと云われています。 その後、信藤氏が七代続き約100年間も信藤氏の居城でありましたが、信藤正親の時に何があったのか全くわかりませんが、権力の座から降りて民間人となり轟城は一時は居城になっていた様です。。。(そんな事あるんかい!?(+o+))

1574年に大西備中守元武によって城が修築され大西氏の居城となった様です。大西氏と云えば『四国のへそ』と云われる『阿波国白地』を納めていた白地城主の大西覚養の息子とも云われており、1577年に長宗我部元親に白地城を攻め落とされたときは、一時、大西元武を頼って轟城へ逃げ込んでいたとも云われていますが、長宗我部元親の人質となっていた弟の大西頼包の説得に応じて長宗我部氏に従属し阿波国に戻ると、近隣の重清城を攻め落とし長宗我部元親から重清城の城代を任されます。しかし、怒った三好氏は十河存保(そごうまさやす)を差し向け大西覚養は敗死したようです。

一方、轟城の大西元武は約5kmしか離れていない川之江城を落城させます!
『1582年に川之江城主の河上但馬守が三島宮に詣でた帰路に謀臣の秋山氏に誅殺され、轟城の大西元武に内通し大西氏が川之江城を急襲し落城させたとあります。その際に河上但馬守の娘は父の後を追って断崖から身を投げた』っと川之江城にある『姫ヶ嶽』の案内板には記載されていました( `ー´)ノ

大西元武は伊予国領主の河野氏に忠誠を尽くした義心あふれる豪将だった様で、1577年頃に長宗我部元親は阿波国から笹ヶ峰や新宮の山道を越えて伊予国へ侵攻を開始します。その関門として立ちはだかったのが大西元武の守る轟城でした。大西元武は深山幽谷の自然の地形と急坂を最大限に生かし、押し寄せる長宗我部軍を何度も押し返して孤軍奮闘しました様です。その後、松尾城主の真鍋大炊介通近が長宗我部氏に通じ、大西元武は長宗我部軍と戦ったが敗れ、山川国秀の屋敷へと逃れますが敵に取り囲まれ自刃して果てた様です。

上段の川之江城にあった『姫ヶ嶽』の説明板と大西備中守元武の死と時期がずれますが・・・これもまた歴史の面白さとして勘弁してください((´∀`*))ヶラヶラ

轟城/大西城画像ギャラリー

実は2回目のアタック!前回は交通量が多く登り口を発見できず撤退しましたが、今回は交通量が少ない朝方を狙って訪問し探しました。国道192号線が松山自動車道に差し掛かる西の信号付近に駐車させてもらい城攻めしました! 結論からいればここが最も最短ルートでにポイントになりました!

国道南側を歩いて、右に登る坂道がある。登ると二股になり自動車道の右側を登って階段となります!

階段を上がっていくと・・・見えましたヽ(^。^)ノ

本丸に到着です♪

いろいろ・・・ぼろぼろ・・・になっていますが・・・苦笑

轟城/大西城情報

築 城不明
城 主信藤氏、大西氏
住 所愛媛県四国中央市金田町金川
種 別山城
廃 城不明(1577〜82年ごろ?)
特 徴–
入場料無料
営業時間–
駐車場無し

轟城/大西城へのアクセス

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