香川民部少輔の墓の感想
香川民部少輔(かがわ みんぶのしょう)の墓とありますが、『民部少輔:みんぶのしょう』とは『官位』ことなので、当時を考えると香川之景(ゆきかげ)で西庄(にししょう)城の城主・・・元々は天霧城の城主だった香川氏の一族です(‘◇’)ゞ 戦国時代の西讃岐(香川県西部)を治めた絶対的実力者でありました。
香川氏は室町幕府の讃岐守護代を務めた名門の家柄でありながら、阿波三好氏の台頭、織田信長の圧力、そして土佐の長宗我部元親の怒涛の四国侵攻という巨流の中で、家と領民を生き残らせるため泥臭く、しかし極めて冷静な「現実外交」を展開した武将が香川之景(ゆきかげ)でした(=゚ω゚)ノ
香川民部少輔の凄みは、時代の潮流をいち早く察知し、意地やプライドを捨ててでも家を守る現実主義者としての果断さにあったと思います。
『鬼十河』こと十河一存が東讃から押し寄せると、当初は抗戦の構えを見せたものの、三好氏の勢力が畿内まで席巻する圧巻の武威を目の当たりにすると、いち早く和睦に動き、三好氏の傘下に入りつつも自領の独立性を高く維持し西讃岐の主としての実利を確保したり、1577年〜1579年頃になると長宗我部元親が大軍を率いて西讃へなだれ込んでくると、香川民部少輔は天霧城に籠城して防衛線を張りましたが、長宗我部軍の猛威と四国全体の情勢を冷静に考えに考え、単に降伏するだけでなく、長宗我部元親の次男である香川親和(ちかね)を自身の養子(後継者)として迎え入れます。。。 これにより香川氏は一気に「長宗我部一門」としての破格の待遇を獲得。西讃岐の領地と配下の国人たちをそっくりそのまま守り抜くことに成功しましたヽ(^。^)ノ 俺は正直、こんな生き方は嫌いではありません!弱小一族が生き抜くための強かな『知恵』だと思います。
しかし・・・1585年になると羽柴(豊臣)秀吉による『四国征伐』が始まると、長宗我部氏は敗北し養子の香川親和は土佐へ送り返され(のちに病死)、香川氏の領地も豊臣方の将(山内一豊や生駒氏ら)へと引き渡されることになりました<(`^´)>
香川民部少輔の墓画像ギャラリー





『西庄城』はみあたらんかったけど・・・ここだったんかねぇ・・・?

香川民部少輔の墓情報
| 年 代 | 不明(16世紀末ごろ没?) |
| 住 所 | 香川県坂出市西庄町 |
| 種 別 | 史跡 |
| 入場料 | 無料 |
| 営業時間 | – |
| 駐車場 | 無し |