三増合戦場跡の感想
武田軍と北条軍が戦った三増合戦の場所になります。元々は今川・武田・北条の三国同盟を組んでいましたが、1560年桶狭間の戦いで今川義元が敗れ武田信玄が三国同盟を破棄して1568年今川領への侵攻を始めます。武田信玄は徳川家康と今川領の分割を条件に手を結びさすがに勝てないとなった今川氏真が1569年掛川城を開城し今川家は滅亡します。今川氏真は小田原北条氏の元に逃げて最終的には徳川家に庇護されるようになるのですが、話が逸れるのでここまでにします。
武田軍は駿河平定の邪魔になる小田原の北条氏も邪魔だと考えるようになり、というか氏真の妻(早川殿)は北条氏康の娘なのでやり返されることは明白。信玄は戦うしかないと考えていたのではないかと思います。1569年に信玄は駿河側からは小田原まで攻めるのは難しいと判断して、遠回りな碓氷峠を越えて群馬から南下する方法で小田原城まで攻めて行きます。2万の軍勢で途中の北条側のお城を次々に落城させ、息子の武田勝頼が鉢形城を武田信玄が北条氏照の滝山城を攻めて小田原城まで攻め上がります。ただ、城下に火を放つなどしたものの挑発しただけでわずか4日で軍勢を引き上げて撤退を始めます。その引き上げて帰る途中で北条軍と激突した場所が三増峠になります。三増峠に繋がるまで話が長くなってしまいました。
戦いは武田軍20,000対北条軍20,000と言われており、最初は北条綱成の鉄砲隊により、武田軍の侍大将浅利信種を討ち取るなど北条側有利に進みますが、武田軍の赤備え山県昌景率いる5,000の兵が北条軍の側方高所から攻撃に加わると北条軍は大混乱となり敗走を始めます。最終的には武田軍約900人の死者、北条軍3,269人の死者を出して武田軍の勝利に終わった戦いになります。
戦国時代を代表する武田と北条の戦いの地。遺構などはないですが、周辺には「武田信玄の旗立て松」や「首塚」「胴塚」などもありますので興味がある方は訪問してみてください。
三増合戦場跡画像ギャラリー
道路沿いに看板や東屋を発見!


三増峠の戦いと呼ばれるくらいなのでもっと山間の場所を想像してましたが思ったより開けている場所でした!

看板の案内図は文字が薄くなってて読めないですね。。

三増合戦場石碑

説明版







三増合戦場跡情報
| 年 代 | 1569年 |
| 住 所 | 神奈川県愛甲郡愛川町三増1183−3 |
| 種 別 | 史跡 |
| 入場料 | 無料 |
| 営業時間 | – |
| 駐車場 | 無し |
三増合戦場跡へのアクセス
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